この授業は 2009年以降は実践していません。

1年生「生きている自分の手をつくる」

 この題材の目標。鑑賞と表現を通して「表現するということの本質」を感じとる。
 造形能力の面では形を面でとらえながら「比べる力」を磨く。相互評価によって認め合い、高め合うことのよさを実感する。心棒はなし。生徒の感想は部分です。この感想文が授業改善の大きな手がかりになります。

2004年3月

今回角度、長さ、でっぱりなどよく見て、こういう風になってたんだーといろいろなことを発見しました。面でのとらえ方もできるようになりました。集中力もつきました。

いろいろな方向から見て、実物と比べてしっかり観察し、自分で考えてできました。  それから、少し変えるだけで形がすごくかわるということがわかりました

手をつくるのはとてもむずかしかった。美術に対する感じ方が変わった。そして集中力がついたと思います。

いつも、いろんなことをやるのに大切な手。よく見たら気がつかないことがたくさんあった。うまくはできなかったけれども心をこめてできたと思います。

前と横を比べるとまるで違う人がつくたのかと思うくらい違っていました。全部の面を少しずつ見てコツコツ直していこうと思うようになりました。全部の面がピシッと決まりました。

力の入れ方だけでいろんな表現ができると分かりました。上手にリアルにつくることも大切だけど、気持ちをこめてつくれば、見る人にもその気持ちが伝わるのだと思いました。

だんだん、形になっていって、次の美術の時間が楽しみになりました。この授業でいろいろな方向から観察してつくる楽しさを知りました。真剣にやるおもしろさがわかりました。

つくり始めるとき「こんなの簡単だ」と思っていました。その甘い考えで集中力がなくなりました。先生からアドバイスをもらうと、なぜか集中して納得いく作品ができました。

彫刻は奥が深いと思った。ロダンの「バルザック像」を見た時は正直なんだかわからなかった。でもなんだかズシリとした感じがした。題名は「たちあがる手」にした。

彫刻が好きになりました。 自分なりに力を入れているようにつくりました。 つくっていくうちに、いろいろな発見がありました。

作品を見るときに、今までは「うまいなあー」っていう見方だった。手をつくってから「力強い手だなー」とか「表したいことがわかるなー」という見方に変わった。

「こぶし」をつくってて思ったのは自分の気持ちが作品に影響するのだと思いました。いいことがあって明るい気持ちで作ると、どんどん作れて、いい作品になるのが実感できた。

みんなからアドバイスをもらってつくっているうちに、自分の思っていた形ができてきたと思います。アドバイスをしたり、もらったりすることはとてもよいことだと思いました。

途中の授業から、心をこめることを意識してやったら、上手ではないけど、自分の気持ちの入ったものができた。完成した時はすごくうれしかったし、達成感があった。

題「力強い手」、理由は、自分自身が強くなりたいからだ。作品には出ていないけど、この握っているものは、今まで自分の心にあった弱さなのかもしれない。

今までは自分は何もできないと思っていたけど大きなまちがいだということを発見しました。題の「喜怒哀楽」は作品を作っている時の気持ちです。


「生きている自分の手をつくる」その前に「鑑賞」

 1年生の「生きている自分の手をつくる」という授業の導入で、ロダンの彫刻を中心に鑑賞の授業をした。
 最初は現代彫刻も含めながら、ロダンの彫刻へと焦点化していく。
最初に、考える人を見せる。「ジダン?ロダン?」「それ、知ってる」「テレビでやってた」という調子である。なんとなくがちゃがちゃした雰囲気。
 今度は、私の雰囲気や声の調子もを変えて、「地獄門」を見せる。門に描かれた人間像に着目してもらう。そこに表現されている人間の姿を見ていると、生徒の表情も変わってくる。そして、「ところで、この地獄門で「考える人」は、何を考えていたと思う?」と発問した。教室が完全に静まる。とてもいい目をしていた。
 
 時代を超えて、国を越えて、単なる複製の写真であるが、ロダンという人が、作品を通して、このクラスの生徒たちに、メッセージを送った。そのメッセージを受け止めた。その仲介役が私なのだとあらためて思った。
 続いて「カレーの市民」「バルザック像(これは習作と比較鑑賞)」「接吻」などを鑑賞する。(「接吻」は「性教育」の視点からも大事にしたい。「男の人と女の人が愛し合うこと」を、エッチとは違う見方でとらえている。「愛」。)
 主題に応じた表現方法の違いはロダンの場合はとてもわかりやすい。
 制作へと関連づけるため、カテドラルとカレーの市民の手の習作を比較鑑賞。
「違いを感じるね」「これが何かを「表現する」ということではないかな、ただそっくりにつくってあるということとは違うよね、と先生は思う。」
 こうやって考えると手前味噌ではあるが、もし、この生徒たちが美術の授業を受けなかったとしたら、美術を特別好きにでもならない限り、ロダンの考える人を見ても、授業の最初で出した感想程度の認識程度で終わっていた可能性もある。
 しかし、「鑑賞をするという環境」をつくってあげるだけで、生徒は、作品の奥に潜む作者の表現意図を中学生なりに、ちゃんと感じ取るのだ。未来を築き上げていく若者がこれからも、文化や人間を大事にしていくようにと願っている。
 
 そもそも生徒に美術のよさを感じ取る感性はある。しかし、磨いてあげる機会を意図的につくる必要はある。(ましてや様々な情報にあふれる世の中だ。)
 子どもの持つ感性を埋もれさせたままにしてはおけない。
 それを鑑賞の授業で引き出し、その「感じた心」を「人として価値ある体験なんだ」と確認するという授業にしたかった。
 授業の最後に、生徒が感じ取った感性のすばらしさを評価したし、「ロダンってすごいね、みんなを黙らせてしまった。」と話した。
 今後の課題は、どのような作品を生徒に出会ってもらうか、限られた時間数の中で、深めたり、広げたりの鑑賞が欠かせない。重いテーマもあるし、楽しいテーマもある、絵画だってデザインだって現代美術だって。
 生徒にどんな願いを持って、どんな「出会い」をつくってあげるか。なかなか難しいことではあるが、楽しみでもある。
 
 学習指導要領の中で、アジアの美術を扱うこが示されている。教師自身が、なぜアジアの美術なのかということを、押さえておくことが必要だ。学習指導要領は全国の子供たちのためのものだが、それだけでは不十分だろう。北海度はかつてアイヌ民族の土地であった。そこも大切にしたい。日本美術と同じように大切だと思っている。
 ついでに、一言、「国際化・国際理解・共生・環境・平和」など、教育でも大事にされてる。言語以外などの方法で美術だけができる方法もある。そこにも鑑賞の価値があると思う。
 やっぱり「美術」は必修教科として必要だ。「情操?趣味?才能?」

04年1月 山崎正明

「鑑賞教育」については、兵庫教育大学の福本謹一先生のサイトから豊富な実践や研究が紹介されています。福本先生の言葉を紹介します。
「鑑賞教育追い風現象は、本当に表現と鑑賞をつなぐ学習を支えるものなのでしょうか。
美術館教育がもっと面白いとしたら、図画工作科や美術科に出る幕はないのでしょうか。
学習指導要領の改訂は、図画工作科における鑑賞の全学年における独立した扱いや地域の美術館との連携を示唆していますが、教科配当時間削減の中で鑑賞は意味あるものとして子ども造形学習の中に成立するのでしょうか。
鑑賞が名画鑑賞という概念から脱皮して、表現と鑑賞のミッシング・リンクをつなぐ本当の意味での美術学習を考えていきたいと考えています。

(サイトエディター 福本謹一)」


1年生「生きている自分の手をつくる」〜作品完成直前

 黒板に「作品の完成〜作品に心を込めて、命を与える」と書いた。
「ちょっとクサイ感じの言葉だと思うでしょ。でも、おおまじめ。みんなは、ロダンの作品を見ているうちに完全に静かになったよね。あれは、ロダンという人が時も超えて、作品を通して何かを訴え、みんなが感じ取った。しかもホンモノではなくて写真でだよ。美術ってすごいよね、考えていた事が時代を超えて、国を超えて、見ただけで相手に伝わるんだから。さあ、今日は作品に心を込めるぞ。今日が勝負だ。つまり主題を表現する訳だ。今までは主題のことまで考える余裕がない人も多かったとは思うけれど、今日はそれに挑戦しような。
 前回は広隆寺の弥勒菩薩がミケランジェロのダビデ像のような表現だったらとか、仁王がムアみたいな表現だったらと考えたらみんな笑ったよね。美術で何が大事かがわかっているから笑ったんだよね。
 今回は手のつくり方の勉強ではないという話もしたね。前の時間勉強したデフォルメや地肌のことも思い出してやるといい。さあ、今日は主題を表現するのだから作品が劇的に変わる人も出てくると思うよ。形がまだ納得いかない人は、「比べる」「面」「いろいろな方向から見る」がヒントだったね。」「とにかく大事なのはみんなが手を創ることで、どんな感じを表したいかということだ」
 このような話をした後、教室は完全な静寂の中制作がはじまった。
 子ども達の目の動きと手の動きを前のほうから見る。
さすがに今日はなんとなく手を動かしている生徒はほとんどいない。
 最後なので一人一人全員に声をかける。
「今日は一番大事な主題のことは、先生は教える事ができない。教える事ができるのは形のことくらいしかない」と言ってから声かけをはじめた。
しかし、声かけの内容は主題ではなく形の事が多い。「ここと、ここ比べてごらん」「ここも面の考えでとらえるといいんだよね」「主題何?」「なるほどね」「おー、ここ工夫したね」「すごいなー、この面に気がついたんだ!」「こっち側からみてごらん」「違いに気づけば形はよくなるんだよね。」「この地肌の雰囲気いい!」「いやー、ものすごくよくなたねー」一人30秒くらいだろうか。
 授業の途中で「ロダンがね主題を表現でいた時が作品の完成である。」という言葉を紹介しながら、雰囲気の違う制作中の生徒の作品をいくつか紹介する。
 やわらかな感じの作品や力強さあふれる作品等。
 その違いに「おー」という生徒の声があがった。「完成の判断はみんな自身が決めるんだよ。今日どうしても完成しない人は、放課後かな?もう完成したと思う人は遠慮なく終わっていいよ」
 こうしてまた黙々と制作は続いた。うれしい出来事なので担任の先生に伝えておいたら、帰りの会でそのことをすぐに話してくれた。
 今回の制作過程で私が一番うれしかったのは、学力が極端に低く集中力のないAくんが、ものすごく集中し意欲的に制作していた事である。
周りの生徒も制作過程でA君の作品がどんどんよくなっていくことに驚いていた。最後に彼が「できた!」と言った。私が「最初はドラエモンの手だったのになー、なんだかすごい作品をつくったなー」と言うと、うれしそうにうなずいた。
「やればできるってわかったろ!」と言うと「うん!」と元気な声が返ってきた。よほど、うれしかったらしく、私に美術室への荷物運びを申し出てくれた。二人で廊下を歩きながら「美術で頑張れたから、次は英語だな!」と言うと、返事はなかった。
 放課後はB君が残って制作をはじめた。強さを出したいということだった。10分ほど見てあげた。「比べる」(「面」「いろいろな方向」)の観点でアドバイスをした。
 30分ほどしてからもう一度、彼の作品を見た。感心した。「すごくよくなったんじゃないか。力強さが出ているよ!」と言うと「今まで図工苦手だと思っていたから、こんなにできるとは思わなかったあ。」「力強い感じが出せてよかった。」もう笑顔、笑顔。私もうれしかった。
 B君は主題にこだわり、そのための技を求めた。こんな感じがいい。

                    2004年3月 山崎 正明