こんな本を読みました

「子どもの絵は語る」

「子どもの絵は語る」絵からよみとく子どものメッセージ

■ 福田隆眞監修 山口県造形教育研究会 研究部 編著
三晃書房(2006年)

素晴らしい本です。最初の解説から、いい!短い文章で本質を語っています。特別新しいことを書いているわけではありませんが、説得力のある内容です。

全文を紹介したいくらいです。

幼児から高校生の作品に解説をつけています。また「発達段階から見たアドバイス」がポイントとして示されていますので、この画集を眺めていくと、造形教育の大事なポイントが見えてくるようになっています。

 美術の教育研究団体が美術教育の本質をわかりやすく広めていく、これは非常に重要な仕事です。まずは、幼稚園や全教科を指導している小学校の先生に対して。

 世間から美術教育の価値を認知していただくためにも欠かせないことです。

「ベーシック造形教育」

「ベーシック造形教育」

■宮脇 理 監修  
建帛社(2006年)

 是非手元においておきたい本が出ました。
 実は新刊でありながらこのもとは37年前をさかのぼるそうです。
 私の手元に1993年版「新版造形の基礎技法」(初版は1984年)がありますが、これをさらに発展させたのがこの「ベーシック造形技法」です。
 同じように「 造形教育の基礎知識」も改訂を重ねながら今に至っています。この間、美術教育も変わってきましたが、しかしこうして見ると確かに変わらぬ大事なものが何なのか見えてくるかもしれません。

 さて今回のこの本、宮脇先生によりますと、ネットとの連携・発展も想定しているようですのでこれからにもおおいに期待できます。この本の中にもリンクという言葉が使われています。
 ウィキペディアが動き出すことになるでしょう。
ことによると、この本とインターネットがリンクするのかもしれません。これは美術教育の方法論として注目すべきことになるのではないでしょうか。

 さて内容ですが、見開き2ページで完結しており、図版も豊富で簡潔にまとめられていますから、持っていたい一冊です。
 自分の今やっている授業が美術教育の中でどんな位置になるのかそのスタンスを知っておく事は非常に重要だと考えています。短所や弱さを知りつつの実践をするのと、我流でやるのとは意味が違います。

宮脇 理 監修 山口喜雄・天形 健 編集
伊藤文彦・岡本康明・新関伸也・佐藤昌彦 編集委員

1、人間と造形
2、造形表現の分類 
3、絵画・彫刻の基礎技法
4、デザイン・工芸の基礎技法
5、芸術作品の鑑賞
6、生活と造形  


「美術科教育の基礎知識」


 「美術科教育の基礎知識」

■監修 宮脇 理 ■編集 福田隆眞 福本謹一 茂木一司
建帛社 (2000年)  


 この本は1985年に刊行されましたが、私は初版と同時に購入し、よく利用させていただいています。そして3訂版というべきものが、本書です。
 美術教育を考えていくにあたっての押さえておきたい内容が、ほとんどが網羅されていると言ってもよいでしょう。

全国の教育大学の先生方が中心となって執筆されており、原則として1ページに1項目で構成されています。

したがって入門的な内容となりますが、自分が日頃考えていない分野のことに気がついたり、自分の実践の位置づけが見えたりと、価値ある一冊と言えます。

研究会等で参加者がここに書いているようなこと(否定的であろうと、肯定的であろうと)を押さえた上で討議すれば、より深まるのにと思うこともあります。

 本書は4章から成り立ち、162項目についての見解が述べられています。
ちなみに私が美術教育史に関心を持ったのは本書がきっかけでした。若いうちに良い本と出会え、執筆された方々に感謝しています。

 大学の先生方の書いた文ですが、平易な記述となっています。ニュートラルな内容でどこからでも読めます。おすすめの一冊です。
また興味を持った項目についてさらに知りたければ、出典一覧を参考に本を探すこともできます。


第1章 美術科教育とはどのようなものか
第2章 美術科教育の領域と内容について
第3章 美術科教育の学習指導について
第4章 美術科教育の運営と学習環境について

例えばこんな項目があります。

8 生涯教育としての美術教育の現状と課題について述べよ
23 戦後の主な民間美術教育運動の展開とその意義について述べよ
37 アルンハイムの発達理論を概説せよ
44 造形遊びの導入の経緯と目的・内容について述べよ
60 絵を見れば、子どもの心がわかるというのは本当ですか?
106 紙の性質と技法を説明せよ
111 低学年における鑑賞指導の考え方と留意点を述べよ
142 教師の言動行動について述べよ
155 イギリスの教育と美術教育について概説せよ

 最後に、監修の宮脇先生が「序」の中で、「例えばCD-ROMとの連動、映像などの挿入によって「躍動的なテキストに盛り上げることが出来たら楽しい」という想いにあふれています。」と書かれています。第4訂版はDVD付きかな?

 現場も夢を持って頑張りたいですね。


「美術教育の名言」

「美術教育の名言」

■滝本正男・島崎清流編著
黎明書房(1994年) 


 教師になってすぐにローウェンフェルドの「美術による人間形成〜創造的発達と精神的成長〜Creative and Mental Growth」(黎明書房)を買いました。 それまでは他の本の引用でこの本の存在を知っていただけでした。感銘をうけました。この本との出会いは自分にとって大きかった気がします。子どもの成長を軸に教師がどう関わるべきかが、克明に述べられています。今読んでも教えられることが多い本です。しかし、大作で気軽に読めないため、いつのまにか本棚に眠っていました。

そして、1994年、この「美術教育の名言」と出会いました。100の名言が取り上げられていますが、その名言に解説を加えたものが本書です。本書が取り上げた名言は、チゼックの「先行の段階を終わることなく次の段階にはいるべきではない。先行段階をすべて卒業した子どもだけが、長い生涯にとってのよい基礎を身につけることができる」という言葉が根底にあります。(チゼックの思春期の造形活動に対する見解は、違うと思いますが)

 ここにある言葉を読んで、自分の授業を振り返ってみたり、我が子との関わりの中でも「そうだよなー」と思うことが多々ありました。美術教育の本質を考えるための本として、とてもよい本だと思います。手軽に読めるので、私も時々読みながら自分の実践を見直してみる一つの手がかりにしています。

 美術教師はもちろん、専門外で美術を教えるのは難しいと言っている先生、保育園、幼稚園の先生、親になった人にもぜひ読んでほしい本です。
なお、本書の最初に「児童画の発達段階」の表が示されています。何を大切にしているか、このことでも本書の意図が理解できると思います。

 以下に、いくつかの言葉を紹介します。


○「適した時期に、適した材料を承知していて、子どもに与えることが、教師の仕事である。」

(ローウェンフェルド)

○「子どもを尊重してやる気持ちがあり、子どもに対する理解ある愛情をもち、それがどういうことかが、よくわかっている人なら、専門外の先生でも、優秀な美術教師としての本質的な資格が十分ある。」(リチャードソン)


○「「描くこと」は、「考えること」を手伝っている。」

(宮武辰夫)


「アートがつなぐ学校と社会」

「アートがつなぐ学校と社会ー美術教育の新たな方向」

紫峰図書(2005)

 旬な本を入手しました。
「アートがつなぐ学校と社会ー美術教育の新たな方向」
(女子美術大学教職課程研究室編・紫峰図書)という本です。
 これは2004年秋に女子美術大学で開催された教育フォーラムの記録です。

内容は次の3つです。

1、「美術教育の『これから』ー海外事情を紹介しつつ」と題した全国造形教育連盟委員長である立教大学文学部教授 冨安敬二氏の講演。

2、「美術教育の新たな方向〜学校と社会のパートナーシップ〜」と題したパネルディスカッション。
 学校だけでなく、NPOや出前授業 などといったユニークな美術教育活動をしている方たちの発表。
 コメンテーターとして遠藤友麗氏(前視学官。聖徳大学教授)コーディネーターとして永井順國氏(女子美術大学教授。中央教育審議会初等中等教育分科会委員)が参加。

 3、「学校における美術教育の存在根拠の確立と三位一体のパートナーシップ〜確かな能力の育成と美術の活性化・文化化を進める〜」と題した遠藤友麗氏の資料。

*この本は一気に読みました。(正直このフォーラムに参加したかったなあ。)

★冨安敬二氏の講演はコンパクトでありながら、これからの美術教育を考えていくにあたって何を課題として考えていかなければならないかというヒントがちりばめられているように思います。(実際には多数のスライドを紹介しながらの講演。見たかったなあ。)
(1)芸術家と人間性
(2)美術教育の歴史
(3)芸術教育に影響を与えた人物
(4)海外の美術教育の実情
(5)美術の教科書と学校制度について
(6)アメリカの美術教育の現状
(7)これからの美術教育のあり様について
(8)美術と宇宙
この講演を通して私の認識が不足してる部分がわかり、たいへん参考になりました。

冨安氏の講演の結びの言葉にこうありました。
「教師の力量の差や、恣意性によって授業の質の差が出ていると思いますが、そのようなことは公教育では絶対にあってはならないと思います。」

 そう、これなんです。あの先生だから出来るではなく、今後の美術教育を存続させるためにはこれまでの美術教育の英知を結集し、一般化できるものを生み出していく必要があるでしょう。同時にこれは、美術教育の存在理由を明らかにしながら子どもの中に育んでいくべきものをより明確にする必要もあると思います。
うーん、方向はわかってはいますが、難しい取り組みでもあります。
教科書の在り方も変わっていくでしょう。

★遠藤友麗氏の資料はこれまで文部省で学習指導要領をつくった方だけあって、非常にわかりやすい資料となっています。

(1)図画工作・美術科の目的
(2)「美術を通して」の教育と「美術の」教育
(3)世界の中の日本の美術教育の位置
(4)美術教育の教科性
(5)美術教育の持つ5つの教育力
(6)美術教育の3つの柱
(7)確かな能力を身につけさせる指導にあたって留意すべきこと
(8)パートナーシップを生かした美術・造形の学習

今後の美術教育を考えていくうえで示唆にとんだ本だと思います。

現在この本はamazonなどには反映されていません。出版社に問い合わせたところ、書店に注文するか、直接出版社に連絡して下さいとのことでした。価格は1575円です。

発行所 有限会社 紫峰図書 
〒230-0041 横浜市鶴見区潮田町3-143-1
電話 045-502-3955

「絵のなかの子どもたち〜描写教育から表現教育へ」


「絵のなかの子どもたち〜描写教育から表現教育へ」

                ■佐藤一郎・宮原修 編著
国土社(1987年)



 この本は現場の教師や画家、大学の先生などが月に一度集まって図工美術教育のあり方を追求してきた6年間の成果をまとめたものです。(ここに費やした時間を考えるとこの報告がいかに重みがあるかがわかります)1クラス全員の絵を前に、様々な角度から授業のあり方を考えていったそうです。授業者はもちろん、様々な立場の方が執筆しています。

 私が強く印象に残ったのは吉川由美先生の実践です。
 荒れた学校に赴任し、先生の真摯な姿勢を通し、授業の中で変容をとげていく生徒たちの姿が報告されています。その中で教師の語った言葉に私も感銘を受けました。特に鑑賞の授業の進め方は、なるほどと思いました。
 また小学校の室田明美先生の実践。室田先生自身が一番好きだと言う「ひよこ」の絵。学級で飼っていたひよこが死んでしまうところから、はじまります。子どもたちの内からわき上がる欲求の中で、絵を描いていく姿が描かれています。「表現とは何か」という本質に触れる実践だと思いました。 

 理論編では朝日新聞で子どもの絵画と個性についての論争が紹介されており、私も読みながら迷ってしまいました。美術教育の本質を考えるよい材料となっています。
 また「発達段階の教条主義化」という問題点に触れています。子どもと表現について、あるいは発達段階ということについて、新たな視点で、考えることができました。

 指導論では「子ども一人ひとりに柔軟に対応する」「柔らかな集中をつくる」「子どもの表情を読む」「教材教具を豊かに利用する」という言葉も印象に残りました。私自身も授業中、生徒達の表情を読みます。そうすることで、私のすべき事が見えてくることが多いのです。
 美術教育の各団体による運動論がについてもくわしくのべられており、その変遷の歴史から学ぶことも多々ありました。過去の実践から学び、今そして未来の美術教育のあり方を考えていきたいと思います。

 大学の研究では教師教育論が提案されています。大学の先生の論文は難しい言葉が使われることもありますが、わかりやすい文章です。受講生の言葉が印象に残ります。大学と現場での連携についても、学ぶべき点が多々ありました。

 この本を読は研究会に参加している感覚で読めます。研究会に参加し、実践報告を知り、各氏の研究発表を聴くといった感じです。
 美術教育には様々な考え方がありますが、その多様な考えを学ぶ事によっても、本質が見えてくるように思います。考えさせられる事の多い研究会に参加したような気持ちになる本です。

                    2004年1月 山崎正明


「MITE! ティーチャーズキット」


 このごろ美術教育の研究会では「鑑賞教育」が取りあげられることが多くなりました。従来の鑑賞教育ではややもすると知識中心、教師の解説(山崎は感動の押し売りタイプでした。)的なもの、ビデオ教材視聴などという感がありました。


しかし、研究が盛んになっていく中で様々な方法が考えだされました。その中の一つがもとニューヨーク近代美術館のアメリア=アレナスさんによる対話型鑑賞授業です。以前から日本でも紹介されていましたが、北海道では旭川の庄子さんの実践によって興味を持ち、私なりに少しずつ試してきました。
 この方法を取り入れたことで、鑑賞の時間が楽しく、活気のあるもになりました。授業後わざわざ私のところに来て「楽しかった!」「おもしろかったので、先生またやって!」などと声をかけてくれるたりします。
 そしてこれまでの私の考え方が変わったのです。「作品の価値をいかに伝えるか、いかに感動してもらうか」という視点から、「子ども達の感じる感度をどう高めるか」に変わってきたのです。そして明らかに子どもの姿が違ってきます。作品をより深く鑑賞できるのです。
 さて、「鑑賞教育はどうあるべきか?」と考える時、生涯教育の基礎を培う義務教育で何をすべきなのかを真剣に考えることでしょう。どんな大人に育ってほしいのか。
 さて、そんなところにきて、最近アメリア=アレナスさんの対話型の鑑賞授業が、日本の鑑賞教材として出版されました。「MITE! ティーチャーズキット」というものです。
 このテキストの素晴らしいところは一般的なマニュアルとは違い、子どもの学ぶ姿が描かれていることです。テキストを読んでいると子どもの姿を想像してしまいます。「まなざしの共有」というアメリア=アレナスさんの言葉の意味がよくつたわってきます。
 これはオススメの本です。何しろ読みやすいですし。
以下のサイトでこの「MITE! ティーチャーズキット」についてくわしく述べられていますのでご参照ください。内容の一部も公開されています。立ち読み感覚でどうぞ。
 今後も鑑賞教育の研究は進められていくとは思いますが、この「対話型鑑賞授業」のことについては、外せないと思います。

 以下のサイトに詳しい情報がありますので、ご覧ください。

LinkIcon@museum

 「図工ってよくわかんないなあ」なんて言っている先生にも勧めたいですね。きっと、これを実践すると子どもが鑑賞の中で創造的な行為をしているって感じられると思うんです。
 テーマになっている「みる・かんがえる・はなす」は鑑賞を通して子ども達の様々な能力を伸ばすということも感じられると思います。いわゆる学級経営にもプラスとして働いてくると思います。私の学校の生徒の指導はハードですが、車座になってこの授業をしたら、雰囲気よかったです。

2006年2月

「創造的人間形成のために」

鬼丸吉弘著

 鬼丸先生の著作「児童画のロゴス」は論理的に整然とまとめられており、学ぶべき本です。

 ここに紹介させていただいた「創造的人間形成のために」は、一般の方が読まれてもよいような内容になっています。実際に子どもを前に指導される先生にこそ強くお勧めしたい本です。
 特に図工の指導が苦手とかよくわからないなどとおしゃっておられる方や大学生には最良のテキストになると思います。

 本書の中で鬼丸先生が厳しく批判されておられる間違った指導などは実はいまだによく私も見聞きします。簡単に言うならば子どもの絵が大人の絵とくらべて稚拙というとらえ方です。まったく成り立ちが違うにもかかわらず。
 いまだある作品主義的な指導。(私もかつてそうあることが指導力と考えていました。)本の中には「子どもの手を借りた大人の絵」という言葉も出てきます。

 さてこうした児童画の発達について書かれた本で中学校段階の指導について述べている本は少ないのですが、本書にでは例えば以下のように書かれています。

 中学生の段階になるとやや違ってきます。造形形式について「教える」ことが可能です。
 ただ誤解をしてはいけないことは、この場合も、知的な教科とはっきり区別しなくてはならないことです。つまり「教える」とは、「そう描かなくてはならない」、「そう描くのが正しい」という意味でなく、「こういう描き方もある」、「勉強のためにひとつこの描き方で描いてみよう」という意味で教えなくてはならないということです。
 さまざまな描きかたがあるのです。人間は本来、どの描きかたを選んでもいのです。それらの描きかた、造形形式自体は相互の間に、価値の差はないのです。
 ここで鑑賞教材の使い方が意味を持ってきます。(p111)


 大学生の時に受けた鬼丸先生の講義を思い出します。(なんと幸運なことか!)

鬼丸先生の大事な言葉。

「描画は子ども時代の、またとない創造訓練の場である。自発的表現を待たない「指導」は創造の芽を殺してしまう。」


「子どもの絵の見方、育て方」



 今、ニュースをにぎわす様々な教育の問題。どうしてもすぐ対処となってきます。「心の教育」なども叫ばれています。しかし、冷静に考えるならば、幼児期がどれほど、大事か、それはみなさん、感じられていることでしょう。

 その幼児教育の中で特に大事なものの一つに絵があります。これは単に情操を豊かにとか、才能を伸ばすとか、そのようなことではなく、人間形成にとって非常に大切なものです。

 さて、そんな視点から、親御さん向けにその絵について非常にわかりやすく書かれた本が本書です。
 鳥居昭美(あきよし)先生の「子どもの絵の見方・育て方」という本です。親御さんに向けて語りかけるように書かれたこの本は素晴らしい本だと思っています。

 美術教育の世界では児童画の発達の研究がされていますが、内容的に難しそうだったり、一般向けに販売されるような本ではないため、このことが知られていないのです。
 しかも義務教育の中では家庭科で育児を扱っていますが、折り紙、絵本、おもちゃなどのことには触れられていても「子どもの絵の見方」は扱われていないのが現状です。(ただし、家庭科の副読本では「子どもの絵の見方」を扱っている出版社もあります。)つまり、学校教育の中でそのことを知らないで大人になるのがほとんどでしょう。

 ですから、このような本(子育てのテキスト)が出版されている意味は大きいと思っています。


さて、この本の中から一部を引用させていただきます。


(幼児期の絵に対して)

「子どもの絵は聞いてはじめてわかるものです。子どもにとっては、聞いてもらう事によって初めて、絵を描くことに意義を持ち得るのです。聞いてもらい、わかってもらうことは表現する喜びになります。ですから聞いてやり、わかってやり、その感動を受けとめてやる、これが、
子どもの絵に対する、最も大切なお母さんの態度といえるのです。」

「お母さんの多くが、子どもの描画活動(試行錯誤・探索活動)に対して、あまりにも過干渉だということです。
 過干渉とはどういうことか?
 それは子どもの「自分の力で行動する力、自分の感覚で感じとる力、自分の頭で考える力」の芽を摘み取っていることになるのです。」

「子どもの絵は教えるものではなく、育てるものです。絵の技術を系統的に教えるのは、9歳を過ぎてからです。それまでの絵は教えようとすると、かえって子どもをダメにしてしまいます。子どもの育つ力に、先走って無理をさせてしまうからです。その代表的な例が形を教える、形を描かせる、色をあれこれ指摘して使わせる、塗りつぶさせる…などです。」


☆ 「子どもの絵の見方、育て方」←amazonでは今この本の文庫版が安く出ています。

 さて、この本は鳥居先生が地元高知の保育園や小学校の先生とも共同研究をしながらつくりあげてきたものです。
 あとがきには「お母さん」へのメッセージがあります。この本を出版された鳥居先生の思いが伝わってきます。
 そして多くの教育関係者に読んでいただきたい本です


「絵で聴く子どもの優しさ」


深川市の渡辺貞之先生が、5年前「寺内さんって、すごい人がいるから、山崎くんに会わせたいなあ」とおっしゃっていました。実際にお会いして感激しました。(あーあ、娘が生まれてからすぐだったらなあ。)私の授業も変わってきました。まだまだですが。
 この著作は寺内先生のものです。その一部を紹介します。

「子どもと向き合うというのは微笑みながらうなづきあう生活を日常化することから始まります。子どもの描いた絵を両手で受け取り、ゆっくりした会話で、表現した気持ちを聴き取ることです。私はこれを「絵を聴く」と呼んでいますが、それだけで子どもの優しさと自信が見えてきました。
 子どもの心が消えてしまったわけではありませんでした。大人が子どもの心に共感すれば、その優しさと自信がふくらむと確信できたのです。
 しかし幼児期の優しさと自信には響き合えたもののそのあとの実践研究はまだ進んでいません。児童期の人間関係と自己表現の関わりは子育てや教育の現代課題としてこれからも取り組みたいと願っています。」(「はじめに」より)

「絵を聴く」というのはおかしな言葉遣いだが、「絵を描いた子どもの心を聴きとり共感する」という気持ちを表した筆者の造語である。芸術鑑賞で音楽は聴く、絵は見ることを通して内なる表現を自由に感じとるのが、受け手の喜びである感性である。しかし子どもは絵で気持ちを訴えるから、おとなが自由気ままに観て楽しむのでは、その心に寄り添えない。子どもの絵は観るより聴くものなのである。」(p.219)

「家族の向き合う生活が減少する情報化時代に、子どもの気持ちが伝わらない悲劇が始まった。絵が描きたいのに描けない子どもたちに、だれでも描けるようになる技法を教えるよりも、だれだって描きたくなるおとなの共感が何よりも望まれる。」(p.220)

「センス・オブ・ワンダー」


 「センス・オブ・ワンダー」

■レイチェル=カーソン 上遠恵子訳

                              (新潮社) 

 この本は世界で最初に環境汚染の問題を告発したといわれる「沈黙の春」(1962年刊)を書いた海洋生物学者レイチェル=カーソン最後のメッセージです。自分の甥ロジャーと自然の中で過ごす日々から、彼女が確信した思いを綴ったものです。
本当にこの本に出会えてよかったと思っています。一文を紹介します。


 わたしは、子どもにとっても、どのようにして子どもを教育すべきか頭をなやませている親にとっても、「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではないと固く信じています。子どもたちがであう事実のひとつひとつが、やがて知識や知恵を生み出す種子だとしたら、様々な情緒やゆたかな感受性は、この種子をはぐくむ肥沃な土壌です。幼い子ども時代は、この土壌を耕すときです。美しいものを美しいと感じる感覚、新しいものや未知なものにふれたときの感激、思いやり、憐れみ、驚嘆や愛情などのさまざまな形の感情がひとたびよびさまされると、次はその対象となるものについてもっとよく知りたいと思うようになります。そのようにして見つけ出した知識は、しっかりと身につきます。

 もし、八月の朝、海辺に渡ってきたイソシギを見た子どもが、鳥の渡りについてすこしでも不思議に思ってわたしがなにか質問されてきたとしたら、その子が単に、イソシギとチドリの区別ができるということより、わたしにとってどれだけうれしいことかわかりません。


 以前、幼稚園の先生と造形教育に関する研究をしていたとき、その幼稚園の先生が言った事を思い出します。確かこんな話でした。「子どもが文字を早く覚え過ぎちゃうと、絵を描くことが減ってしまってねー、それまで、何か絵を描いては見せにきてくれた子がねー。絵を通してのコミュにケーションが減ってしまうんですよ。」この本を読んでなぜか思い出した。

 さて、ちまたの学力論争(私は正しくは「受験学力」論争と思いますが)、なぜか変な方向に行っている気がしてならないのです。

                         2004年2月

「アイヌ神謡集」

「アイヌ神謡集」

■ 知里幸恵編訳
岩波文庫

この「カムイユーカラ(アイヌ神謡集)」は、アイヌ民族である知里幸恵(ちりゆきえ)さんが残してくれた人類の貴重な財産でしょう。
 世界ではじめてカムイユーカラをローマ字表記し、さらに日本語訳を加えると言う画期的な出版でした。
 幸恵たちアイヌ民族は明治政府による同化政策によって母語であるアイヌ語さえも奪われました。したがって日本語は勉強によって身につけました。しかし家に帰ればユーカラの素晴らしい語り手であった祖母と伯母がいました。知里幸恵さんは今でいうバイリンガルです。そんな環境で育った彼女が東京に上京し、金田一京介氏のもとで、この「アイヌ神謡集」を完成させました。1992年9月18日、彼女はこの「アイヌ神謡集」の校正をすべて終えたその晩、持病である心臓病でなくなりました。享年19歳。
 この「アイヌ神謡集」の美しい日本語による「序」は、有名ですが19歳の少女が書いたことに驚きを感じます。彼女が天才と言われるゆえんでしょう。
 本書は13編のカムイユーカラがとりあげられていますが、冒頭のユーカラはアイヌ民族の住むコタン(村)の第一の神であるシマフクロウのユーカラです。このシマフクロウをアイヌ民族は「カムイ(神)チカプ(鳥)」と呼びました。


アイヌ神謡集」序

その昔この広い北海道は、私たち先祖の自由の天地でありました。
天真爛漫(てんしんらんまん) な稚児(ちご)の様に、美しい大自然に抱擁されて、のんびりと楽しく生活していた彼等は、真に自然の寵児(ちょうじ)、なんという幸福な人たちであったでしょう。
冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って、天地を凍らす寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り、夏の海には涼風泳ぐみどりの波、白い鴎(かもめ)の歌を友に木の葉の様な小舟を浮かべてひねもす魚を漁り、花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて、永久に囀(さえ)ずる小鳥と共に歌い暮らして蕗(ふき)とり蓬(よもぎ)摘み、紅葉の秋は野分に穂揃うすすきをわけて、宵まで鮭とる篝(かがり)も消え、谷間に友呼ぶ鹿の音を外に、円かな月に夢を結ぶ、嗚呼(ああ)なんという楽しい生活でしょう。平和の境、それも今は昔、夢は破れて幾十年、この地は急速な変転をなし、山野は村に、村は町にと次第々々に開けてゆく。
太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて、野辺に山辺に嬉々として暮らしていた多くの民の行方も亦(また) いずこ。僅かに残る私たち同族は、進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり。しかもその眼からは一挙一動宗教的感念に支配されていた昔の人の美しい魂の輝きは失われて、不安に充ち不平に燃え、鈍りくらんで行手も見わかず、よその御慈悲にすがらねばならぬ、あさましい姿、おお亡びゆくもの・・・・・・それは今の私たちの名、なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう。
その昔、幸福な私たちの先祖は、自分のこの郷土が末にこうした惨めなありさまに変わろうなどとは、露ほども想像し得なかったのでありましょう。
時は絶えず流れる、世は限りなく進展してゆく。激しい競争場裡に敗残の魂をさらしている今の私たちの中からも、いつかは、二人三人でも強いものが出て来たら、進みゆく世と歩をならべる日も、やがては来ましょう。それはほんとうに私たちの切なる望み、 明暮(あけくれ) 祈っている事で御座います。
けれど・・・・・・愛する私たちの先祖が起伏す日頃互いに意を通ずる為に用いた多くの言語、言い古し、残し伝えた多くの美しい言葉、それらのものもみんな果敢なく、亡びゆく弱きものと共に消失せてしまうのでしょうか。
おお、それはあまりにいたましい名残惜しい事で御座います。
アイヌに生れアイヌ語の中に生いたった私は、雨の宵、雪の夜、暇ある毎に打集って私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中 極く小さな話の一つ二つを拙ない筆に書連ねました。
私たちを知って下さる多くの方に読んでいただく事が出来ますならば、私は、私たちの同族祖先と共にほんとうに無限の喜び、無上の幸福に存じます。

 大正十一年三月一日    


        知 里  幸 恵    


(岩波文庫「アイヌ神謡集」から、ただし上記の文章の(  )内の読みがなは山崎で加えました。)

「木に学べ」

「木に学べ 法隆寺・薬師寺の美」

■西岡 常一(薬師寺宮大工棟梁・故人)
小学館


「日本の文化は木の文化」と言われます。だからこそ、日本人としてどうしても読んでおきたい本があります。
 西岡 常一(薬師寺宮大工棟梁・故人)氏の「木に学べ 法隆寺・薬師寺の美」(小学館)という本です。

 はじめて読んだとき、こんなにも深いものだったのかと感動しました。飛鳥時代の人々の持つ哲学に感動しました。法隆寺の棟梁がずっと受け継いできたという「口伝」には重さがあります。

 高校生の時、修学旅行で見た法隆寺ですが、数年前にに再び法隆寺を訪れた時は、この本を読んでいたので、深い深い感銘をうけました。2日間かけて見ました。

西岡氏は亡くなられましたが小川三夫氏が受け継いでいます。

 以下に授業で子ども達にも伝えている西岡常一氏の言葉を紹介します。

「いろんな人が、ぎょうさん法隆寺を見にきますが、世界で一番古い木造建築だからって見にくるんじゃ、意味がありませんで。
 古いだけがいいんやったら、そこに落ちている石の方が古いんや。法隆寺は千三百五十年、石ころは何億年や。
 だから、古いからここを見にくるんじゃなくて、我々の祖先である飛鳥時代の人達が、建築物にどう取り組んだか、人間の魂と自然を見事に合作させたものが、法隆寺ということを知って見にきてもらいたいんや。
 「建造物というのは重いもんでっせ、その荷重を、いかにうまく分散して太い柱で支えるかが構造ちゅうもんです。それぞれの部材が充分役目を果たして、余分というもんがないというのは美しいもんです。
 飛鳥の工人の作ったものは、その代表ですな。「人は仕事をしているときが美しい。」いいますな。それは、人の動きや心に無駄がないからです。建造物も同じですな。機能美というんでしょうな、こういう美しさを。飛鳥の建造物にはこうした機能を第一とした美しさがありますな。」

「大工が千年の木を使えば、千年もたせなならんちゅうことも自然な考えですし、千年たったときには千年の木が育ってんといかんというのも自然な道理ですわ。」

 鑑賞の授業で様々な取り組み方がありますが、この法隆寺の鑑賞では知識が大事になってくると思います。実際にこのことを知っていると見方が変わってくるのです。
 単に世界遺産だから大事だというのではなく、西岡氏や小川氏の言葉と共に後世に伝えていくべきものでしょう。
 ましてや今後国際理解教育が益々重要にしていくならば、英語を話せることよりも、自国の文化を誇りを持って語れることがますます重要になっていくでしょう。

 今度の光村図書の教科書「美術2・3下」では「伝統を受け継ぐ宮大工」として小川三夫氏のお話が2ページにわったて紹介されています。

2005年12月


「絵のある人生 ー見る楽しみ、描く喜び」

■安野光雅
岩波新書(2003年)

 大人の人で絵には関心があるのだけれど、「絵心がないから」「基礎ができていないから」などの理由で一歩踏み出せないでいる人と出会ったことが何度もあります。考えるに、この人達も小学校や中学校での授業の中で絵を描いてきているはずですが。
(癌で亡くなった私の父はー絵のことなどほとんど口にしなかったのですがー病室のベッドで、「絵を描いてみたいなー、これからでも描けるかなー」と私に聞きました。私は「退院したら描こう」といったのですが、実現出来ませんでした。母が絵を描きはじめました。)

 私は現在、生涯教育を見据えての美術教育のあり方を考えていかなければならないと思っています。普通の大人の人が絵を描く生活をイメージしながら、そのために義務教育で必要なことは?そんなことを考えているときに出会ったのがこの本です。
 さて本書ですが、美術に関心を持った人のために描かれた本ですが、「絵がわからない」とか「絵を始める人のために」といった章もあります。随筆風の安野氏の文章はあたたかみがあって、美術教育を考えていく上でのヒントとなることも書かれています。

*印象に残った言葉*

絵を描く姿勢に二つあるように考えられました。
①仕事として、好き嫌いにかかわらず描く。(たとえ、意に添まぬ注文の絵でも描く。頼まれて描く挿絵、イラストレーション、本の装丁など。)
②描きたいという衝動に駆られて描く。(頼まれなくても描く。他人の思惑とは関係なく描ける。ゴッホがほとんどこの立場)(P15)

この描く理由というのが、絵を描く者には大きいエネルギー、そして意欲になっています。ですから、それがないと描けません。そもそも、絵を描く方法は教えられないものだ、と思ったほうがいいです。だから「基礎」というものは考えにくい。(P151)

石膏デッサンが、対象を写実的にとられて表現し、世界に通じる言葉を身につけるための勉強だとすると、必ずしも写実的に描けない自己流の表現は、方言にあたります。方言ですから第三者に通じないこともあります。けれども自分の思っていることを、素直に表すことができるのは方言のほうです。方言は勉強したこともないのに、いつのまにか体にしみこんでいるものです。(P152)

わたしは、軽々に「絵描きになれと」と人に勧めることはできません。でも、それで生活しようと、思わないですむなら、大賛成です。絵を描くことは、描かないで過ごした人生にくらべて、どんなに充実しているか知れないのだから…、今ごろになって「絵と一緒に生きてきてよかったな」と思っています。(P198)

創造訓練

描画は子ども時代の、またとない創造訓練の場である。自発的表現を待たない「指導」は創造の芽を殺してしまう。

 中学生の段階になるとやや違ってきます。造形形式について「教える」ことが可能です。
 ただ誤解をしてはいけないことは、この場合も、知的な教科とはっきり区別しなくてはならないことです。つまり「教える」とは、「そう描かなくてはならない」、「そう描くのが正しい」という意味でなく、「こういう描き方もある」、「勉強のためにひとつこの描き方で描いてみよう」という意味で教えなくてはならないということです。
 さまざまな描きかたがあるのです。人間は本来、どの描きかたを選んでもいのです。それらの描きかた、造形形式自体は相互の間に、価値の差はないのです。
 ここで鑑賞教材の使い方が意味を持ってきます。

「創造的人間形成のために」

鬼丸吉弘

専門外の先生

子どもを尊重してやる気持ちがあり、子どもに対する理解ある愛情をもち、それがどういうことかが、よくわかっている人なら、専門外の先生でも、優秀な美術教師としての本質的な資格が十分ある。

「美術教育の名言」
リチャードソン

経験者の落とし穴LinkIcon


知識を生み出す種子

 わたしは、子どもにとっても、どのようにして子どもを教育すべきか頭をなやませている親にとっても、「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではないと固く信じています。子どもたちがであう事実のひとつひとつが、やがて知識や知恵を生み出す種子だとしたら、様々な情緒やゆたかな感受性は、この種子をはぐくむ肥沃な土壌です。幼い子ども時代は、この土壌を耕すときです。美しいものを美しいと感じる感覚、新しいものや未知なものにふれたときの感激、思いやり、憐れみ、驚嘆や愛情などのさまざまな形の感情がひとたびよびさまされると、次はその対象となるものについてもっとよく知りたいと思うようになります。そのようにして見つけ出した知識は、しっかりと身につきます。

「センス・オブ・ワンダー」
レイチェル=カーソン

過干渉

 「お母さんの多くが、子どもの描画活動(試行錯誤・探索活動)に対して、あまりにも過干渉だということです。
 過干渉とはどういうことか?
 それは子どもの「自分の力で行動する力、自分の感覚で感じとる力、自分の頭で考える力」の芽を摘み取っていることになるのです。」


「子どもの絵の見方、育て方」
鳥居昭美