今こそ、美術科の存在理由を考えなくてはならない

 2003年11月に「豊かな美術教育を!」(旧サイト)というホームページをはじめました。最初に書いたコラムが「今こそ、美術科の存在理由を考えなくてはならない」というものでした。

必修教科から美術が消えてなくなるかもしれない。非常に心配だ。
 今、学力論争が盛んだが、「美術」は、話題にのぼらない。人間の成長にとって何が大切なのか、そこを抜きには語れない。学力論争で取り上げられている学力とは「受験学力」のことではないのかな?
 学力を語るとき、私はレイチェル=カーソンの「センスオブワンダー」は、必読の書と思っている。
 今こそ「教育基本法」を改めて読み返したい。しかし、その教育基本法を変えてしまおうという動きすらある。教育は誰のためのものか。教育の原点を見つめるべきと思う。 
 教育の中で図工美術の存在理由が問われている。美術という教科を通して子どもにどんな力を身につけさせるのか、何を育てていくのか、どんな大人になっていってほしいのか。
 今、「美術科」はそのこと抜きに語れないと思う。評価規準だ、短時間題材だ、表現力だ、と言っているうちに、気がついたら...。
 日々の実践で教科の存在理由を問いながらの美術教育を進めていく必要があると考えている。
 私の中にもこんなことしていていいのか、と思うことも多々ある。
一人の力は小さいけれども、互いに学び合いながら、美術教育の質を高めていきたい。なぜ、義務教育に美術は必要なのかを問い続けながら。
 そして教科を残すために私には、何ができるのか。そこが、まだ見えていないのだが。

2003年11月 山崎正明
 

知識を生み出す種子

 わたしは、子どもにとっても、どのようにして子どもを教育すべきか頭をなやませている親にとっても、「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではないと固く信じています。子どもたちがであう事実のひとつひとつが、やがて知識や知恵を生み出す種子だとしたら、様々な情緒やゆたかな感受性は、この種子をはぐくむ肥沃な土壌です。幼い子ども時代は、この土壌を耕すときです。美しいものを美しいと感じる感覚、新しいものや未知なものにふれたときの感激、思いやり、憐れみ、驚嘆や愛情などのさまざまな形の感情がひとたびよびさまされると、次はその対象となるものについてもっとよく知りたいと思うようになります。そのようにして見つけ出した知識は、しっかりと身につきます。

「センス・オブ・ワンダー」
レイチェル=カーソン