自己を見つめる貴重な時間

 「図画工作美術教育の大切さを訴える」というブログを開設し、2005年10月下旬から11月までの短期間でしたが、美術教育に関する多数のご意見を集約しました。
 その成果を冊子としてまとめ、中央教育審議会や文部科学省など関係機関・関係者に届けました。
 私は、その中で以下の文章を書きました。

図画工作美術教育の大切さを訴えるLinkIcon

 公立中学校の美術教師をしてますので、その立場からの発言です。
 今、中学校3年生の授業で「命の形」という抽象彫刻で小さな石を彫っているのですが、彼らなりに一生懸命石を彫っている姿を見ると尊い姿だなと思います。かわいいです。生意気な口をききますが。
授業の中で1週間に1時間子どもが命のことを、ふと考えながら、美しい形を自らの手でつくり出そうとしています。
 一般の方々には美術というと、上手に描いたり、つくったりするための時間と思われがちですが、全国でこのような授業は多数されています。
 とりわけ3年生で自画像に取り組むことが多いのですが、描く事を通して自己を見つめることになるわけです。
 思春期の難しい時期にこのような授業は他の教科ではありません、あるとしたら国語でしょうが、受験の方がどうしても優先されてしまいます。やはり中学生が自分について考える、自己との対話をする、この時間は外せません。
 選択教科にしてしまえば、これは一部の生徒の体験でしかなくなります。生徒全員が取り組んでこそと思っています。美術は単に「癒し」とか「趣味」の世界ではありません。自己を見つめる貴重な時間でもあります。たとえ、それが大人から見て稚拙と思われる表現であっても、誠実に取り組む姿の中に大きな価値があります。この時間を無くしてから、あとで大事だったと気がついても遅いと思うのです。
 例えば子どもが自画像を描いていてこんな言葉を残しています。「描いているとき、どんどん自分に素直になってく感じがした。なんでかは、未だにわかんないけど。」「他の人の作品を見ると、その人の気持ちも伝わって来た。」
 自分も他者も大事にする心は表現と鑑賞の活動の中によって養われていきます。それはテストの点数などでは示すことはできません。
 ここに述べた事は美術教育の果たすべき役割のほんの一端にすぎませんが。

(山崎正明・48歳・中学校美術教師・北海道 北広島市)



自画像制作で「過ち」払拭。

 下の文章は「読売新聞」に掲載させていただいたコラムから転載したものです。限られた字数ですから、「自分という人間の存在証明」という題材名は使っていません。

 3年の最後の美術の授業は毎年、卒業制作として「自画像」を描いている。これは単に表面上を描くのではなく、自分を見つめ、内面を描こうというのが狙いだ。
 その授業でB男のことが強く印象に残っている。野球部で活躍していた彼は、美術の授業はどちらかというと消極的で、絵画表現でも苦手意識を持っていた。
 しかし、この最後の授業では、いち早く主題が決まったようで、珍しく私に質問してきた。ところがその内容は「自画像の背景にたばこのパッケージを描いてもいいですか?」というものだった。意図を聞くと、こう答えた。「ほら、2年生の時、事件起こしちゃったでしょ」
 それは、野球部の仲間との喫煙行為を指していた。当時のB男は一度道から外れかかったが、顧問教師の熱い思いに触れたこともあり、その後また野球に打ち込むようになった。
 B男は美術の授業中、自分の顔を鏡で見ながら、何度も何度も手を加えていた。描いた絵を離れて見ては、また描き直す。そんな感じだった。そしてできあがった作品。背景には薄汚れたユニホームとたばこが描かれていた。その暗い背景と対照的に、自画像の表情は笑顔で、しっかりとこちらを向いている。とても明るい色で、見ている私が元気をもらえるような絵となった。
 彼自身「最高の作品ができました!」と言い切った。絵を描くことを通して、B男は心の中にあった引っかかりを払拭(ふっしょく)し、これからの希望や夢を絵のなかの表情に込めたのだ。
 中学校の授業の中で、自己をじっくり見つめる機会は意外と少ない。自分自身をしっかり見つめる機会をつくることの大切さを改めて、B男から教えてもらった。「美術を通した人間教育」と言われるが、まさにその通りだと感じた。

読売新聞「子どもの心」2006年6月24日
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