経験者の落とし穴

 十数年ほど前、私一人で美術の授業を全学級担当できなくなりました。授業の時間数が多すぎたのです。それで、他の先生に数クラス担当していただいたことがあります。新卒数年目の英語の先生ですが、彼女は特に美術の指導がしたいとか、そのような理由ではありません。仕方なくです。

 授業をするにあたり、当然打ち合わせを持ちます。彼女に生徒になってもらって、私が模擬授業をするというスタイルでの打ち合わせです。(ちょっと照れくさい感じでしたが…)
彼女は「これなら、やれそうです。」とのことでした。また基本的に私の授業は視聴覚教材を多用するため、それを、そのまま使いながら授業をしていただきました。
 授業がはじまってしばらくして、何度か授業を見に行きました。いくつかアドバイスをしました。

ある日、私は衝撃を受けました。彼女に専門の私が負けたと思いました。

 彼女は生徒一人ひとりに声をかけているのですが、その言葉は生徒の作品や制作態度に対する「感動」の言葉です。「ほめる」という次元ではなく心の底から感嘆の言葉を発しているのです。しかも、さりげなく。
「いいね」と一言いう感じが、温かさにあふれていました。そこには生徒との信頼関係が感じられました。
 私も手を抜いていたわけではありません。しかし、生徒一人ひとりの表現に本気で目を向けていなかったと自覚しました。
 その頃の私は、何を考えて授業をしていたか。「今回の授業は、昨年に比べ、あの部分の指導がまずかったから、今はこんな程度になったのだろう。今度は改善しなくちゃ。」きわめてクールだったのです。しかも目を向けているのは「表現の完成度」が中心になっていました。
 授業には最高の自信がありました。
 しかし、もっとも基本的なことをいつのまにか忘れていたのです。一人ひとりの生徒の存在を見ていないといったらいいのかもしれません。
 そして彼女が職員室に行って担任の先生に、生徒の絵を見せながら、その制作中の様子や生徒が表現しようとしたことをうれしそうに伝えているのでした。それまでの私もそうしていたはずでした。
気がつくと、いとのまにか授業のテクニックに走りすぎたことを猛省しました。
 経験者の落とし穴かもしれません。「こんな感じでやったらこうなる」という手応えを感じていたのでした。
この出来事があって私は美術教育の原点に戻ることができました。生徒にとって「表現するという行為」の持つ意味をいつも考えていきたいと思っています。

                     2004年6月 山崎正明

この「経験者の落とし穴」という文章を、他の地域の研修会で紹介させていただきたいという電話が来ました。うれしかったです。