題材観(題材設定の理由)こそ大切にしたい

 生徒の学習内容の質は、教師の設定した題材や題材の提示の仕方によって大きく左右される。
 
 指導案で一番重要なのが「題材観」あるいは「題材設定の理由」であると思う.
この「題材設定の理由」の中に、本質が含まれてる。
研究会等で、「題材観」を抜きにしてしまった協議は内容が浅くなってしまいがちだ。
 例えば似たような題材であっても、この題材観が違えば、そこから導き出されるねらいも評価も指導方法も違ってくる。その題材に取り組むことで、子どもにどんな力や心を育もとしたのかということである。
 また題材観が導きだされる背景として指導観や生徒観がある。大事にすべきところだ。特に生徒観あるいは生徒の実態(よさや可能性)。
 目の前の子どもたちを前に「なぜその授業をする必要があるのか」ということを問われていると思えばよい。
 以前美術の授業が年間70時間あったころと違い、今は厳選しなければならない。「短時間題材」の開発ということで、済むことではいはずだ。
 さて「方式」による絵画指導があるが、これは子どもは絵は未熟なものとしてとらえ、教師の頭の中にあるよい絵に近づけさせるための「指示」をし、描かせている。
よって指示の方法が授業を左右すると思う。題材設定の理由はさして問題にならないだろう。
なるとしたらそれは絵になるか、ならないか、といったことだろう。
どうして日本全国「シャボン玉」「ホタルブクロ」?
一人ひとりの子どもの「思い」はどこにいったのだ?
 中学校ではどうか、技法指導ばかりに目が向いてしまうものや、キット教材、目新しさが中心の教材もある。子どもは意欲的に取り組むだろう。
 しかし、その題材の必然性が見えてこないものもある。私は以前技法指導に相当力を入れていた事もあった。非常に意欲的に取り組んでいたし、私もおもしろかった。
しかし、子ども達の中に何を育てようとしてたのか。極端に言えば、うまい絵を描かせるようにしていただけではないのか。その頃の私は「うまい絵を描かせられる教師が指導力のある教師と思っていた。その頃の生徒の自己評価の作文はたいてい技法のことが中心でメンタルな内容は少なかった。
 なぜ、その題材に取り組むのか、その題材を通して子どもにどんな力や心を育てようとしていくのか。「本気」で考えることが何よりだ。その集合体が美術教科の存在理由である。
 時間数が多い頃はこのことについてシビアに検討しなくても豊富な体験を通し、つじつまがあっていたこともあったかもしれない。しかし、今は違う。
学年が進むにつれて特に、生徒自身もその題材に取り組むことに「意義や価値を感じる」ようにしたい。
別の言い方をするならば「題材観」で生徒と一致しているような授業にしたい。生徒がその題材観に共感し、意欲的に取り組むような授業をしたい。
美術の授業は奥が深い。

                  2004年4月 山崎正明