3年生「 自分という人間の存在証明 」

義務教育最後の授業

はじめに

 中学校3年生の最後の授業は、それは義務教育の総決算であり、9年間を通して色や形や材料を通して学んで来たことをもとに子どもが思う存分本気で表現に取り組むような授業でありたい。
 卒業を前にした子供たちが自己と向き合う中で、自己表現い取り組むことの価値を感じとりつつ、表現することの喜びを実感してほしい。
 あわせて鑑賞も他者理解、自己理解を深めることがで、鑑賞のおもしろさを十分味わえる場としたい。

 最後の授業で作品が完成しても時期的には評定は決まっている。そのことは子どもは知っている。
 それでも、どう評価されるか、そんなことではなく、描きたいから描く、つくりたいからつくる、そうなるような授業にしたい。
 義務教育の学習内容が生涯教育の基礎を培う場である。生涯を通して美術に親しんだり、義務教育で学んだことを日常の生活に生かしたり、生き方を豊かにしていくという一役を担うようにしなければならない。
 したがって最後の授業は「卒業制作」として重みを持ったものとして位置づけたい。

小学校との連続性

 さて今小学校の学習内容は楽しく表現することに重きが置かれている。また従来「工作」と言われていたものが「つくりたいものをつくる」という名称に変わった。それは表現の主体者として子どもの「思い」や「存在」を大事にしているからであろう。
 中学校では、小学校で学んで来たことを発展させ、子どもが主体的に表現に取り組む中で、自らが質の高い表現をめざし、喜びを持って表現や鑑賞に取り組む授業をつくっていきたい。
 中学生という精神的な発達の著しいこの時期だかこその質の高い表現も現れくる。だからこそ全国各地の教室から感動的な作品も生まれてきているわけである。
 ただ、中学校ではややもすると表現方法のほうに重きがおかれ過ぎることもある。それは指導者が基本的には美術専科で自らが「受験美術」を経験していることも、その理由のひとつであろうと思われ、気をつけたい。



授業の実際


高さ35センチの大作 この題材は卒業を前にした中学校3年生に次のような言葉を投げかけることから始まる。

「自分という人間が、今、この世に確かに存在しているということを、自分を深く見つめながら、作品をつくることを通して証明してみよう。できあがった作品は自分自身が今を生きているという証となる。そして義務教育を終えるという記念すべき日に、全員の作品を飾ろう。自分って何だろうと深く見つめることは、よりよく生きていくことにつながっていくに違いない。自分を似せるのが最終目的ではない。表面的な仕事をするのではない。君たち一人一人の個性の違い、生き方や考え方の違いがすべての出発点となる。」

 本題材は一般的に設定されている「自画像」を深化・発展させたものである。自分像を描く(つくる)という活動を通し、生徒達が自己をじっくり見つめ、自分の個性や自分の生き方について考え、さらに表現する喜びを味わわせたい。

今までの思い出を小さな紙に何枚も描いていった。
 パステル画に興味を持ち、使い方などを本で調べていた。
野球部のピチャー。気持ちの入り方はな並々ならない。
サッカー部の彼は踏み込んだその足に自分の今までを重ねた。

  表現にあたっては、自分の主題や興味・関心に応じ、表現方法を選択し、自分で物ごとを決めながら制作を進めていく。小学校・中学校での造形活動の集大成として設定した。

 この題材を設定する上で、中学校の基礎・基本を明確に押さえた上で教育課程を編成することが特に重要であり、小学校での図工科での活動を発展的にとらえている。

単発的には成立し得ない題材でもある。

 なお、生徒自身が表現方法を決めることにより、一つの教室で様々な表現活動に取り組むことになる。その結果、他者への理解を深めることができる。また、級友たちの様々な表現に触れることができるというよさもある。


題材の目標

◎自分の表現意図に応じた表現方法を選択し、自分を見つめ、自分らしさを表現することができる。
(1)自己を表現することに価値を感じ、主体的に表現に取り組む。
(2)自分自身を表現するために様々な角度から豊かに発想する。
(3)材料・用具の特性を生かして、確かな表現をする。
(4)鑑賞を通し、自己理解・他者理解をできる喜びを味わう。


生徒の作品から考える


 下の絵を見ていただきたい。これが義務教育の総決算として描いた絵と言われどう思われるだろうか。

 空間の表現もいびつだし、人体としてのバランスも悪く色も単調と言われるかもしれない。。
 おそらく、もっと技法面の指導をしたら空間も形ももっと違ったものになったであろう。
 しかし、この作品に向かう彼女の制作態度はひたむきであった。

 作品が完成してから彼女は笑顔で私に作品の説明をしだした。
 「先生、この場面は今までの楽しかったことを思い出しているんです。手を広げたら、そよ風が吹いて来て、髪の毛のところ風に吹かれて少しだけなびいているんです。
 それからテニスコートは上から見たようにして不思議な感じにしたかったんです。」
 先生,今まで絵を描いて来てこんなに楽しいことはなかったです。これを描いて本当によかったです。」そう言いながら、さらに部活動や中学校生活のことにまで話が及んでいった。
 この作品は彼女がこの世に存在しているからこそ生まれて来た絵である。
 そこを大事にしたい。以前の私ならばきっと色鉛筆や油性ペンなど使わせなかっただろうし、形についてはもっとしっかり表現させるように仕向けたかもしれない。もし、そうしたら私が見て満足する絵にはなったかもしれない。
 でもこれは生徒の単なる「自己満足」ではないのか?という声もあるかもしれない。
 しかし、この絵は私のために描いた絵ではなく、彼女が彼女自身のために描いた絵です。そこを忘れてはいけないと思う。
 作品の完成の判断。どの程度力を入れて描くか、それも生徒自身が決める。
さらりとした表現もあるし、とことん追求する表現もあっていい。

 これまで私は卒業制作であるから苦労してこその喜びを味わわせたいとも思ってきた。が、この子達が大人になったとき、美術というのは苦労しなくてはできないみたいに思われては困る。軽くスケッチをして楽しむことだっていいと思う。
 大人になって美術を楽しんでみようかなというとき、それは自らの意思で行うわけだが、それを想定すると、教師がいなければ描けない、つくれないと思ってほしくない。

生徒の姿

 最後に生徒の姿であるが、生徒の表現活動が主体的で、自分で課題意識を持って取り組んでいた。小学校での体験を発展させて考えるというスタンスだと、表現の幅が広がると実感している。
 「自分の存在証明」ということで、自己と向き合い、いかにして自分らしさを出すかという意識で取り組んでいた。また、互いの表現にこれまで以上に興味を持ち、休み時間なども、作者の個性と作品を重ねながら鑑賞しあっていた。

休み時間に自然発生する鑑賞会。

 全体的には生徒自身が自分らしさにこだわって「個性」あふれる作品をつくりあげた。あたりまえのことではあるが、一人一人の「個性」は違う、感じ方考え方も違う、だから表現も大きく違う。その違いをベースに質的な高まりを追究する姿を見ていると教師としての喜びを感じる。ここに「美術教育」の面白さがあると思う。


終わりに

 生徒の心の中や思考過程で何が起きているのかということを理解できる感性や分析力が必要だと思う。それが出来てこそ、適切な指導が可能となろう。「共感の感覚」や「学力の評価力」を今後も磨いていきたい。
 なお、卒業記念作品展では、保護者向けに「作品を鑑賞されるみなさんへ」というものを出させていただいている。



2006年4月 山崎正明

「美育文化」2006年7月号 Vol.56 に掲載


存在証明の授業エピソード

 存在証明の3時間(鑑賞1時間と練習1時間含む)にわたる導入が終わり、いよいよ生徒が制作をはじめることになった。とりあえず、全員にアイディアスケッチ用に上質紙を手渡す。鏡も。この段階で頭像や全身像をつくると決めている生徒は、教室の隅に集めて、見本を見せながら制作の手順を説明した。

いや、俺はこれでいいの。

 全身像をつくる生徒には、心棒の段階での人体の比例を正しくとらえ、心棒は関節のところだけ、曲げると説明した。
 ところが、A君は体の比例も関節もほとんど無視した心棒をつくっている。そこで、比例の大切さを再度説明。すると「いや、俺はこれでいいの。」と素っ気ない。
 次の時間Aくんは早々と心棒を台に取り付け、粘土をつけだした。それでわかった。自分の姿をデフォルメしたユーモアたっぷりのポーズなのだ。私の中に全身像の作品のイメージがあり、それに近づけようとする指導をしてしまうところだった。

作品に黒枠をつけたい…

「先生、自画像の周りに葬式のときの写真みたいな感じにしようと思うんだけど、枠の感じがわからない。黒枠をつければいいのかな。」
 どきりとした。そこで表現意図をたずねた。すると、「今まで、いろんなことで真剣に自分を見つめたことがなかったので、最高にまじめな自分を表すなら、葬式のときの写真みたいな感じがいいかと思って」今までいろいろと問題行動を起こした生徒が、このように考えていると知り、感激した。
 私は、「葬式の写真みたいにすると、見る人に誤解されてしまうぞ、それなら真剣に鏡を見て描くだけで十分だと思う。絵そのもので勝負したら?真剣に自分を見つめるなんて最高じゃない!」と言った。にこりとしてうなずいた。

顔をかかなくちゃ、だめ?

「先生、どうしても自分の顔をかかなくちゃ、だめ?」
 これは、何人もの生徒から聞かれた。私としては鏡を見ながら、自分をじっくり見つめてほしい。現実を、そしてありのままの自分を見つめることからはじめてほしい、そして今しか描けない絵、つくれない作品をと願っている。
 「自分を描かなくてもいい?」と聞いてきた生徒には先の私の願いを伝える。ただし、「義務教育最後の作品だから、先生に言われたから、自分を描かなくてはならないと思って描いてほしくはない、描きたいから描く、であってほしい。」こう言って最終判断は生徒自身がする。考え直して鏡に向かう生徒もいる。
 自分のことを風景にして表すと決めた子もいる。その生徒には、「その絵を見たら中学時代の自分がよみがえってくるような作品になるといいね」と言ったら、うなずいていた。何か「思い」があるのだろう。あとで意図を聞くのが楽しみである。
 また美術が苦手で好きでないと思い込んでいる生徒は、私の話を聞いて安心したようである。しばらくしてアイディアスケッチをのぞきにいった。そこには、自分のお気に入りの道具がたくさん描かれていた。「なるほどね。こうやって自分の好きなものいっぱい描いたら、今の自分を表せるかもね。先生も、こういうアイディアを考えてことがある。でもさ、ちょこっと自分も描いてみたら?(最後の余計な一言)」このときの彼女の表情がパッーと明るくなった。「これでいいんだ!じゃあ先生写真を貼付けてもいい?」「いいよ!本当はね、絵にやってはいけないことなどないいだ。もし、そういくことが多ければ先生は美術を好きになってはいなかったかも。とにかく自分らしさが出ればいいよ!」彼女が授業に向かう姿勢が大きく変わった。
 あらためて、教師の題材設定や教育課程編成の重要性を認識しました。

みんな、ごめん!

「ごめん、今日は絵画の人の作品はあまり見ることができません。」すると、生徒から「エッー、今日も?」というつぶやきが聞こえてきた。この声を聞いてまずいと思ったし、そうか、やはり教師の声かけって大事なんだと改めて思った。(授業の見通し、構成がまずいとこうなる。反省)
 そこで、絵画の生徒やまだ悩んでいる生徒に声をかけることにした。10分程度だったが、全員に声をかけて、やっぱりよかった。「エッー、今日も?」といった生徒も私に相談がある訳ではなかった。アイディアスケッチを見せてもらって、「へー、なるほど、いいね。この調子で構図工夫するともっとよくなるかも」と言っただけである。笑顔でした。きっと、「その調子でいいのだよ!」といわれ「安心」したのだと思う。要は教師の姿勢である。この文を書きながら、次の授業改善の方策が見つかった。(制作の最初の段階ではどうしても心棒作りについて生徒に説明しなければならない。彫刻を選択する生徒が20人を超えると、1時間の授業では、全ての生徒に声をかけるのが難しい。そう思い込んでいた。)

先生、楽しそうだね!

「先生、楽しそうだね!」
と生徒から言われた。本当にそうだ。自分自身を表現するために、いったい生徒たちは何を描き、つくるのだろう?と考えたらわくわくする。
 生徒の表現の意図を聞くのがおもしろい、時には「秘密」と言って教えてくれない生徒もいる、その秘密というのがまたいいな。ただひたすら鏡に向かって自分を描いている生徒の姿もかわいい!
「義務教育最後だから、真剣なことをしよう!」

生徒の私語

ある学級で、数人の生徒が、制作をせずに、しばらく、おしゃべりしていた。私の負けである。確かにこの学級の生徒は、他の教科も集中して授業に参加しているわけではないが。しかし、集中している教科もある。
 授業を中断して、もう一度、この授業の願いを話した。「真剣なことをしよう!」という趣旨で久しぶりで強い口調で生徒に語った。
 次の時間、その生徒たちが、制作をはじめた。ほっとした。しかし、こんな語りをしなくてもよい授業にしたいもの。まだまだ、授業の構成や生徒への動機付けが弱いのだろうなと反省をした。

トランプしている場面

「先生、トランプしているところをつくりたいんだけど、心棒をつくるときに・・・」
「自分の存在証明でトランプかあ?もっと他に自分にとって大事なことがあるんじゃないか?」
「先生、私、友達がとっても大事で、トランプしているのは、友達と一緒のときがうれしいという意味でつくっているの。」
「そうかー、なるほどなー、じゃ、友達と一緒でいるといううれしそうな気持ちポーズの工夫でもっとよく表せるんじゃない?」
「あっ!そうだね」
 1、2年生のときは生活面で心配していた生徒である。今、非常に意欲的に取り組んでいる。
 本当はもっともっと深く自分を見つめさせたいのだが・・・彼女の場合はこれまでの交友関係のつまづきもあっての今だから、うれしさは人一倍かもしれないが。

今回はまじめ系

「今回はまじめ系、真剣に描いてみたいの」
ユーモアのあるイラストを描くのが大好きな生徒がいる。2年生の想像画でもユーモアたっぷりのイラストを描いていた。今回は、多分、その路線で思いっきり描いてくるのかと思ったら、今回は真剣なものを描きたいと言う、なんだかうれしかった。ベニヤ3分の1ほどの大きさに描くと決めた。